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加地鳴海の天正戦国小姓の令和見聞録(hatena version)

人類の歴史を戦国の小姓の視点で深く追究していきます。

「光の追憶」(※無断転載禁止)

 

 

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「光の追憶」

 


次女の夏子がようやく成人式を迎えた。夏子が生まれたのは僕がまだ十五歳になったばかりの頃である。僕の兄とは十二歳も離れていた。兄が佐和子さんと結婚し、挙式の翌月には長女の明子が誕生している。その一年後に夏子が生まれた。その時、夏子はまだ僕の姪であった。今では戸籍上僕の次女である。あれからもう二十年の歳月が流れた。
 佐和子さんの容体は、依然予断を許さない。悪性の腫瘍が全身に転移している。二年前、僕は佐和子さんの乳房にしこりを感じた。検診時は二センチほどのごく初期の乳ガンだった。それから何ヵ月が過ぎ、腫瘍の塊が急に肥大化していた。放射線治療では、しばらくは良くなったかのように見えた。担当医師からは温存か切除か判断を迫られた。塊が五センチとなったときである。医師には切除を促された。佐和子さんは自慢の胸を失うのは死に等しい、と僕に言う。僕も愛しい彼女の胸が、この世から姿を消されるのには抵抗があった。僕は女の裸体を描くのが仕事である。絵のモデルは佐和子さんがほとんどである。だから、彼女の体の一部がなくなるのは耐えられない。佐和子さんの深い胸の谷間は僕の命でもあるのだ。放射線による温存療法ということで奥たちの意見は一致した。だが、理想とは裏腹に経過は最悪の状況になっていた。ガンの転移が進行し始めたからである。一年前の担当女医からは余命半年ということだった。その半年が一年を迎えた。夏子の晴れ姿には間に合った。だが、一寸先は分からない。佐和子さんは、元気そうに振る舞っている。とにかく明るいのである。明日の事なんか分からないし、悩んでもむだでしょ。一分一秒が大事。元気を出しなさい、と佐和子さんはしきりに言う。家族の僕たちが反対に病人のように見える。開き直った柔らかな笑顔。その笑顔の裏側には恐怖の海が待ちかまえているのだろう。僕にはそう感じる。今では、これでも僕は佐和子さんの二代目の夫なのである。佐和子さんには、頼りなさそうに見えるのだろうが、彼女への想いはずっと変わっていない。
兄は明子が生後三ヶ月を迎えた頃、原因不明の突然死で亡くなる。夏子や明子は父の温もりを知らないまま、青春を通り過ごしていた。まだ若干二十七歳という夫の死に、佐和子さんは半狂乱に陥っていた。僕は彼女が自分を見失っているようにみえた。佐和子さんはまだ二十五歳になったばかりであった。僕はそんな佐和子さんが気の毒に思い、子供ながらにも必死に言葉で慰めてもみた。だが一向に埒があかない。それもそのはずで、僕自信も動揺していたからである。佐和子さんには、少しも慰めにもならない。
僕は気が沈みがちになっていった。佐和子さんはそんな僕を見て、けなげに思ったのだろう。僕は逆に慰められてしまう。単純無垢な少年でも、彼女にとっては、一途な気持ちが嬉しかったに違いない。日が経つにつれ、僕と佐和子さんは姉弟のように気持ちが通じ合えるようになっていた。初七日が過ぎた辺りからそれが顕著にあらわれる。佐和子さんは時折、僕へ熱い視線を送るようになる。その妖艶な眼差しは生前の兄を見つめる目と同じであった。そのとき、まだ僕はそれがどういう意味合いかは知る由もない。
佐和子さんは、たぶん兄の風貌と良く似た僕に、以前から好意を寄せていたのだろう。佐和子さんはしばらく未亡人のまま、僕と二人の姉妹を育てていた。兄の死後五年間は生命保険金や、佐和子さんの実家からの援助で、かろうじて生活は凌いでいた。佐和子さんの実家は秋田市内にある。老舗の大きな旅館で、彼女は女将として采配をふるうはずであった。大学時代の佐和子さんの友人が、内緒で佐和子さんを広告代理店に推薦したという。佐和子さんはイメージガールに抜擢されてしまう。彼女はミスキャンパスにもなったほどである。だからプロ受けはする。その容姿は二人の出産を経ても、ずっと変わっていない。その時兄はオーディションの担当であった。それ以来兄は佐和子さんと関係を持つようになった。
吉祥寺南町のマンションは、兄の死亡時点でローンの支払いはなくなっていた。マンション購入時に、団体生命保険の保証料を一括で支払っていたからである。兄の生命保険金は潤沢ではなかった。僕は美術学校に入学してからは、果敢にアルバイトにも精を出した。僕は佐和子さんへの負担を減らそうと懸命だった。兄と佐和子さんへの、恩返しの気持ちも働いていたからである。在学中に運よく絵の新人賞を手にした。それ以来、僕は画業に励むようになった。
兄が大学を卒業すると同時に僕の両親は、交通事故で他界していた。家は西荻窪の借家だった。両親が残してくれた財産は、微々たるものだった。兄は借家の権利を売り、僅かだが立退き料を手にしていた。そして、兄と僕は近くのアパートでしばらく暮らしていた。兄は広告会社に就職した。入社三年目を過ぎてマンションを購入していた。九十年代のバブルの頃の物件だから、金利も毎月の支払いも高い。たしか頭金はなかったはずである。銀行からの強引な貸付が、後を絶たなかった時代である。人々はマネーゲーム感覚で動いていた。周りでは不動産や株の取引が、盛んにおこなわれていた時でもある。マンションに入居して一年が過ぎたころ、佐和子さんと兄は一緒になり、同時に子供も産まれた。僕を含めた団欒の日々は、三ヵ月というごく短いものとなった。
兄は亡くなる前の日まで、激しく佐和子さんと愛し合っていた。夜の夫婦生活は、僕の部屋からは筒抜けだった。二人の発する夜の声は僕には耳障りであった。それまで大人の夜の行為は、一体どういうものなのか、女の白い体はどうなっているのか、僕はよく分からないまま過ごしていた。僕はいつも気になっていたのである。この頃、僕はまだ童貞だから仕方がない。女への関心が深まったのは、二人の夫婦生活を知ってからである。
 ある夜、寝室での叫び声を聞いて、僕は二人の具合でも悪いのかと心配になっていた。
僕は二人が本当に病気だと思い込んでいた。条件反射かどうか分からないが、とうとう兄の寝室に押し入ってしまった。その時兄と佐和子さんはあらわなままでいた。佐和子さんは、白い胸を揺らしながら仰向けに寝ている。幹夫さん、幹夫さん、と佐和子さんは叫んでいた。陶酔した彼女の顔をみて、僕は不思議な感覚を抱いた。それまで抱いた事のない女の世界があった。彼女の汗がベッドのシーツに沈んでいた。佐和子さんと僕の目が微妙に合ってしまう。僕は近くまで忍び寄った。兄は目を瞑りながら行為をしていたから、僕にはしばらく気づかなかった。兄は彼女の白い胸に顔を埋めている。佐和子さんの股間に激しく腰を押し付けていた。僕はその時、二人はアクメの最中だとはまったく判らなかった。目を瞑りながら、僕は立ちすくんでいるだけであった。兄が気づいて怖そうに僕を睨んでいた。
おい靖夫、見てんだよう、ガキのくるところじゃねえんだよ、早くでていけ、と兄に言われた。それまでいつも優しかった兄は、その日に限って冷淡であった。いつもの兄の顔ではなかった。佐和子さんが失神しているとき、僕は素っ裸の兄に激しく叱責されていた。僕は思いっきり顔を殴られた。そのあざはいまでも消えていない。心の痛みも。兄が亡くなる一週間前の事である。
佐和子さんはそのことは知らないはずである。殴られたのは部屋の外でもあったし、だいいち彼女は性行為の疲れで、安らかに眠っていたからである。兄はそれ以降、僕とはあまり口をきかなくなってしまった。兄は知らないところですっかり豹変してしまっていたのだ。兄はマリファナを常用するようになっていた。検視でそれが判った。二人の夜の行為は、僕が大人の雑誌に目を通すきっかけを作っていた。アクメという言葉を知ったのは、それから後になってからである。僕は男女に関する本を読み漁るようになっていた。だが、それは少年にとっては苦痛でもあった。女に関する情報をいくら頭に詰め込んでも、少年の想像力などたかが知れている。僕の貧弱なイメージだけでは限界だった。
明子が産まれて以来、佐和子さんは育児や二人の夫婦生活に疲れきっていた。兄が以前の女たちと、再び関係を結びだしたのである。彼女が妊娠してお腹が目立つようになってからだ。兄には佐和子さんが妊娠して以来、夫婦の関係を築けないもどかしさもあったのだろうと思う。結婚前はプレイボーイの名を欲しいままにしていた兄は、世帯を持つようになってからは生活は地味になっていた。僕には理想的なカップルに見えていた。だが、佐和子さんは兄の動向がいつも気になっていたようである。僕には時折、本音を吐いて憂さを晴らしていた。貞淑な佐和子さんにとっては、兄の浮気は許しがたい行為だったのである。
僕の想像だが、兄にとっては、出産間もない佐和子さんとの夫婦生活が出来ないもどかしさがあったのだと思う。僕は育児に懸命な佐和子さんが微笑ましく思っていた。兄への妻の役目どころではなかったらしい。兄は明子が生れる前から、家を空ける事が多くなった。毎月の給料も必要最低限しか渡さなくなっていた。それでも、佐和子さんは献身的に妻の努めを果たそうとしていた。二人の夜の行為は月に数える程度になった。
兄の初七日が終わり、僕は熱を出して寝込んでしまった。佐和子さんは明子の育児のかたわら、僕を看病してくれていた。風邪ではなかった。今想えば、生前の兄と佐和子への気遣いが、少し重荷になっていたのかもしれない。熱は三日三晩続いた。佐和子さんは、僕が風邪だと思い、子供に移るといけないわね、と言い、僕と添い寝をしていた。
僕には熱があったが、頭がぼんやりしている以外は、体の状態はは普通であった。僕に夢精があったのはこの頃である。寝込んでいる間、僕は佐和子さんと兄の光景が頭から離れない。僕が寝込んでいる間、しばらく明子には母乳ではなくて粉ミルクを与えていたらしい。よく覚えていないが、熱でうなっているいる時、僕の体に異変が起きたようである。夢だったかもしれない。僕の体が誰かと接触しているのである。佐和子さんなんのかどうかは、判別できない。体の中心が何かに吸い寄せられている。生温かいものに包まれていた。二つの白くて大きな膨らみが僕の顔を覆っていた。僕は、苦しい苦しいと言ったが、それは止むことはなかった。腰が重くなっていた。二つの膨らみの向こうに、女の顔がぼんやり見えていた。僕の口に何かが入った。誰かが水分を飲ませてくれているのだろう。これはやはり夢の中だと僕は思い込んでいた。佐和子さんは夏子が成人式を終えた後、他界した。遺書のなかには驚愕の事実が書き綴られていた。夏子の父親は・・・なんと私だったのだ。。。