1587<道満丸景虎と小姓の戯言>(天正戦国小姓の令和見聞録)HB

人類の歴史を戦国の小姓の視点で深く追究していきます。

道満丸と重家(鳴海院~謙信の詔)其の一 初陣02

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道満丸と重家(鳴海院~謙信の詔)其の一 初陣02

 

 天正十五年夏、決戦を前に鳴海院様は拙者を加地城の土中深く隠すよう下知をした。小姓の麻倉と仲川は青苧の遺言状を埋めたあと農家に落ちのびた。無事生き延びればこの二人は末代まで秘密を守ってくれるはずだ。

 道満丸様は名を改め越後の国主になって秀吉殿の野望をうち砕いてくれるだろう。景虎様と華御前は味方の裏切りで自害して果てたが、道満丸様は輝虎様の正式な世継ぎである。拙者はそれをこの目で見るまでは死んでも死にきれない。宿敵、秀吉・景勝・兼続軍への最終決戦のお膳立てもできた。

 輝虎様の遺言状は天下に号令をかける美しき青苧の巻物。その遺言状の巻物はいつまでも土中に棲みついている訳にはいかぬ。彼らならば柘榴と茉莉花の香りに導かれれば分かることだ。

 景虎様と兄の氏規様は敬い合っていたが離ればなれになった。景虎様は氏康様の七番目の末っ子で、輝虎様の養子になる前は北条幻庵の婿養子で妻を娶っていた。

 景虎様は相越同盟の折り、妻と離縁して急遽越後に来たわけだが、輝虎様の姪である華姫様と祝言を挙げた。ようやくその子、道満丸様が輝虎様の後を継ぎ乱世を終わらせるのだ。

 

 遡ること天正五年秋、輝虎様は能登七尾城の攻略成功と手取川の勝利で凱旋を果たしていた。鳴海院様一行は子息の秀綱殿や分家の城主である源太殿を伴い春日山城に訪れていた。

 輝虎様は以前から中風を煩い、休みのない激戦が体を蝕んでいたようだった。鳴海院様とは異母兄妹の仲であり、加地春綱殿に嫁ぐ前から気心が知れている。

 四十過ぎから中風の疑いがあったが、五度に及ぶ川中島の激戦で無理がたたったらしい。お亡くなりになる一年前、死を予見した輝虎様は、青苧の布で巻かれた書状を常に手元に置いていた。小姓の勘五郎がそれを四六時中警護していた。

 春日山城内でも景勝殿と景虎様が反目しあっている事に憂慮していた。拙者の記憶によれば跡継ぎの名にどちらも記されてはいない。

 誰が記されているかは輝虎様以外誰にも分からないが、唯一存じている方がいる。

 鳴海院様は幼少の頃、輝虎様の面倒をよく見ていた。輝虎様も鳴海院様も父為景殿の側室の子として育てられていたが、鳴海院様の天真爛漫な立ち振る舞いは春日山城では気に入れられていた。互いに異母兄妹という同じ境遇が敬意と何かの結束でつながっていたのかも知れぬ。

 鳴海院様は幼少の頃は柘榴茉莉花姫と呼ばれていた。柘榴と茉莉花の香りが鳴海院様の体中から、何時も放たれていたと城内では噂になっていたのは知っておる。その後名を替え鳴海姫になり、政略結婚で加地城主の加地春綱殿に輿入れをして鳴海御前となる。春綱殿亡き後出家はしたが子息の秀綱の院政を続け、御館の乱の最終決戦にまで至る。

 この春日山城での二人の再会がこれで最後になるとは。

 輝虎様は気丈なうちに生まれてからの想いを鳴海院様と語りたかったようだ。三十年間休みなしの激戦の日々である病が体を蝕んでいたが、二人で語り合うと解放感に浸れるようだった。

 難攻不落の能登七尾城を攻略し、加賀での手取川の戦においては信長軍に大勝利し、能登越中を手中におさめたばかりで、生涯で最後の戦いであると輝虎様はうすうす感じていたのかもしれぬ。