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加地鳴海の天正戦国小姓の令和見聞録(hatena version)

人類の歴史を戦国の小姓の視点で深く追究していきます。

「国主の器ではなかった景勝と秀吉殿の末路」

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春日山城、鳴海幕

お屋形様:上杉道満丸景虎

見聞録検め:小姓

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天正四百五十一年 十月十八日

 

「国主の器ではなかった景勝と秀吉殿の末路」

 

御館の乱は単に越後の跡目騒動でそう大きな歴史的意義ではござらぬ、と何処かの諸将が申したのならそのお方は国主の器にはほど遠いものと存ずる。拙者は目下のところ、天正の十五年(1587年)までしか生きておらぬ故、その後の越後や日の本の行方は知る由もない。こうして令和の時代にタイムスリップして歴史書を諳んじてみると、そなたらの世界を信じろというのはどだい無理な話でござる。お屋形様は景勝殿が秀吉殿に臣従し鳴海金山から全ての金銀を上納するのを食い止めるため、謙信公のご遺言状を死守するため、乱世を終わらせ天下布義の元、御館の乱を命がけで収めたのでござる。ご遺言状に従い道満丸様(お屋形様)が跡を継ぎ、新たな幕府を春日山城で開いたばかりだからじゃ。憲政殿と一緒に殺害された源桃童子(野斜丸様、道満丸様の身替わり)や華渓院様、景虎様の穏便な仇討ちも成就されておる。謙信様の妹である鳴海院様(加地城主・加地春綱の正室、子息の秀綱は景勝殿の従兄弟にあたる。道満丸の後見人)は景勝殿・秀吉殿・兼続殿を粟島の流刑地で生涯を終わらせることになっておった。今もって歴史書を見ると、御館の乱のあと、天正十五年には景勝・兼続軍が阿賀北衆を殲滅したとあるが、拙者は信じるわけにはいかぬ。何かの間違いでござろう。令和の時代に来るまでは夢と希望あふれる鳴海幕府で日の本の大平の世を築くはずだったのでござる。間違った歴史書では、秀吉殿が天下を収め大量の金銀を上納した景勝殿は臣従してから会津百二十万石に移封され、德川殿が天下を収めたあとは山形の米沢藩三十万石に移され非業な死を遂げられたと記されておる。道満丸様の父である景虎様であったなら謙信様の意志を継ぎ越後での幕府開設を行ったに相違あるまい。

そうと分かったからには、今すぐ天正の戦国に戻り、間違った歴史にならぬようお屋形様に強く世直しを諫言せねばなるまい。さすれば、令和の時代でも世界の領民には大平の世が訪れよう。

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