道満丸と重家(鳴海院~謙信の詔)其の三 風雲急春日山城03
輝虎様亡きあと、翌日には景勝殿は本丸を占拠し、金蔵と武器庫を抑えてしまった。我こそが正当な継承者であるという布告を三月に全国に発給したが、正式な輝虎様の印判ではなく勝手に作ったものだったから、諸将からは嫌疑がかけられていた。景虎様も対抗して自前の布告の書状を作っていたが、それが景勝派と景虎派を二分するお家騒動に発展してしまった。
初めの頃景虎派は北条の支援と勝頼殿との密約で景勝殿を追い込んだが、景勝殿は源太殿の兄の協力で勝頼殿への大量の金銀の供与などで、景虎派への離間の計が功を奏し、大勢の逆転に成功していた。
天正七年四月、劣勢に立たされた景虎様は勝頼殿の仲介で景勝殿との和解交渉が成立した。和議のため春日山城へ向かう道満丸様と上杉憲政殿は景勝側の者に斬り殺される。景虎様の妻である華御前は自害、鮫ヶ尾城で景虎様は堀江殿の裏切りにあい自刃した。
景虎様の二人の姫は、配下の数人の護衛で紀伊の服部家に向かった。兄の北条氏規殿に密書を送り、家康殿と水面下で繋がっていた服部半蔵氏に伝わった。姫たちは伊賀と甲賀の忍びの家に匿われた。その後はくノ一となるかどこかの御前になるか知るよしも無い。
これで御館の乱は終息したかに見えたが、阿賀北衆では大きな動きがあった。斬り殺された道満丸様は実は野斜丸様であることはまだ誰も気づいてはいない。
景勝殿と兼続殿は輝虎様の遺言状はに気づいてはいないと、思われてはいたが、すでにその二人は輝虎様の留守を見て遺言状の盗み見をしていた。景勝殿の輝虎様への不信は亡くなる前から大きく根付いていた。
形の上での酒席などに顔を出さないのにはそういう理由があった。
道満丸様の死は諸将の間では公の事実として受け入れられている。源太殿の兄は景勝派で鳴海院様は景虎派だった。阿賀北衆の安田顕元が元々は景虎派だった源太殿を調略で景勝派に引き寄せていた。
やむなく源太殿は兄と共に加地城を落とす羽目になった。源太殿は形の上では加地城を落としたことにする虚偽の策にでる。
源太殿はすでに道満丸様の正体を知っていたからだ。
鳴海院様は源太殿が安田殿の奸計の策に陥ったと周囲に思わせ、韓信の股くぐりの計を巡らせたと察していた。兄の長敦殿への逆奸計の策を講じたことになる。源太殿は兄上とは確執が続いていた。
それでも鳴海院様は気丈な方だった。
正式な輝虎様の詔を源太殿に見せた。源太殿は涙ながらに秀綱殿と鳴海院様に詫びを入れた。道満丸様は加地城で元服を迎えるまでとの命も受けていた。
天正八年、源太殿は新発田城主である兄長敦の病死により家督を継いだ。源太殿は五十公野治長から新発田重家に名を変えた。それまで源太殿が城主だった五十公野城は勘五郎に与えて、名を五十公野信宗とした。
このときから、道満丸様を旗印にして、阿賀北衆は重家殿を中心に景勝・直江軍と来る決戦に向けて士気が上がっていった。
加地城の修復中の屋敷の一画に源太殿は鳴海院様を訪ねた。
「源太、いや重家殿、いま我らは大変なお家騒動ではあるが、此度はご苦労な事でござったな」
「わたくしめはずっと源太でござる。こちらの方こそ鳴海院様にはご迷惑をおかけもうした。許して下され」
「分かっておったぞ。仲川、麻倉、これへ」
「なんでござりましょう」
小姓の仲川と麻倉は丁重に青苧の巻物を差しだした。
「これは御屋形様のご遺言状じゃ」
「ご、ご遺言でござりまするか」
「生前、そなたと共に春日山城にお見舞いにいったであろう。そのときに兄上から内密に預かっていたのじゃ」
「こちらへは道満丸様もご一緒でしたな・・・。しかし、こんなことになろうとは思いませなんだ」
「とくとその目で兄上の詔を拝謁するのじゃ」
「ハハー、恐れ多き事でござりまする」
「そう畏まるではない。兄上とそなたの仲ではないか」
「・・・では、拝謁つかまつりまする」
源太殿は息が止まる形相で手が震えていた。
「こ、これは・・・、なんとお美しい巻物でござりまするな。この麗しい香りは鳴海院様がお召しの物と同じでござる」
「そのようじゃな」